突進


この頃いろいろ忙しい生活を感じて、ある意味疲れは充実というような気がします。すべきことも完食して、やれる範囲ですが。できるというのがいいのかもしれない。

しかし思い残すことがないというか、日々どこかで反省していくことかな?つい言ってしまったとか。ある程度は許容範囲かもしれないが、おっかなびっくりもあります。

しかし人間というのは失敗もあれば成功もある。

しかし失敗に目を配りすぎて、ダメ。と判断。

これは勇み足と思う。実際快進撃のように進む楽壇の生活から一転落ち武者生活。ある知人にこれが現実なんだからもう足を洗うべきだと再三通告をうけていた。

でも実際音楽というのがどういうものか?作曲もしたことのない人だったので音楽界の様子がわからない。普段はゲイ時術の趣味もしませんのでど素人ですが。

人間言っていい場合の発言と不適切な発言というのがある。その間合いが読めず、自分の意見をどんどん言ってその人を傷つけても問題はないとかどの程度まで言っていいか、加減のわからない人もいる。

時々物を発言する時どこまでも許されるとか際限なく言ってもいいと思う図々しい人を見かけたことがある。私も以前そうだった時があり、これは反省しないといけない。

実際あれは言えばどんどん止まらなくなり結果的に人間の不和を生むし、私も言われた側なのでその言った人に対して不満があるそのために距離を置くことがある。

しかし言った本人というのは正義という主観があるのでこれは事実として動かせないものなのである。その当人の理解できない生活が我が生活。

儲からない音楽に投資する。これをやめさせるのが仕事だと言って豪語していたアホもいて、人間には向き不向きがあるのを知らない。自分ができること=全世界の人ができると過信。

正直そういう変な主義には困るものを感じる。

今、私はそういうものを排斥し、個人の時代だと思う。周りがするからするじゃない。自分がしたいからするで、いいと思う。自分ができても他人ができないなんてよくあることだし、自分ができなくても他人ができることもある。

無理に他人ができることを合わせてできるようになろうということはしなくてもいいのではないかな?ま、そういう意味で昨日待望の楽譜が届いたのでこれからの日々はそれを見て勉強しつつ課題に取り組んでまいりたいと思う。

ぐちぐちであったが、作曲編曲にチャレンジ。

コンサートで古典的な形式でやっていこうという自主主催コンサートを開催しようということで今、計画。問題は資金難かな?自己資金がないとできないので。

少し仕事に燃える時かな?ということも感じてはいる。

ま、仕事の方はとりあえず、ズル休みをやめることだ。これが第1目標かな?初歩的。しかしこれが重要。無理のない週間スケジュールを立案し、時間管理をしっかりと進める。

そして創作にあまり時間をかけることなく様々なことを1日の中ですることかもしれない。1所に固まるなということです。漢詩やったり、俳句やったり。仕事したり。作曲したり楽譜読んだり、読書したりだ。

それを飽きるまでかな?さぁいこう。芸術世界へ。

後ろでボロディンの交響曲第3番が快活になっている。スケルツォ楽章が好きである。しかし未完成交響曲なので実際当人にしか完成形はわからないし、世の中に伝搬しているのは他人の創作が美化されているので真作とはいえないが、未完成作品ってなんか魅力がある。

バルトークのピアノ協奏曲第3番、ブルックナーの第九、マーラーの交響曲第10番。モーツァルトのレクイエム。八村義夫のラ・フォリア、黛敏郎のパッサカリア。あげればきりがない。

しかし死の直前まで考えていた世界を見るというのは何か生々しいものもあるけど、一体芸術の想像力というのはなんだろうか?普通の人では感じられない何かを感じる。

しかし普通の人というのは明日の米を作るの精一杯。しかし芸術家は明日の音を作り上げるのに精一杯。普通の人というのはアクセサリーのようなものに必死になるのはおかしいと思い込んでいる。

しかし実際そういうものではないし、好きだからとかではない。それがお金になろうがなるまいが、茶碗の一杯の湯気の米だ。その考え方がおかしいから治してやるとかそういう視線で見てはいけないと感じる。

各々ある。しかし実際価値というのは変えることがその人の人格否定になるのでは?という考えもある。そういう意味で他人を見て品評しないで自分の行動に責任が持てるか?誰かに背中を見せても恥ずかしくないか?というのを感じ息を吸って息を吐いて生活。

まず、人選よりも編成研究をすること。7人の奏者の音楽にしたいのでそこはこだわるかな?ピアノプラス6人。ここのところいろいろあって気持ちがいいこともあれば気に入らないこともある。

人間というのは全て快活にはいかないものだ。そして音楽は快活にもいかない。まぁ、キャッチフレーズは「M」でこれからはいこうと思います。もう夜が更けるのでもう書き止めます。

今はこれくらいかな?
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迷うこと


考えがまとまるということは気持ちのいいことだが、ただネガティブな思考になるとややもすると計算間違いでも起こしたかのような嫌な気持ちを感じることがままあるのだけど、迷うということはとても大事です。

しかし「もっと迷え」ということではない。大事なことは迷うことで、頭ごなしに昨日のことは忘れ、きょうをまっさらな状態で迎えるということをしろということではない。

しかし以前、あまりにこだわりすぎるのを見て昨日は昨日きょうはきょうと説教する方もおりましたが、確かに昨日は息を吸って、息を吐いていました。

ただそれだけのことをしているのではと思うと単純に考えをまとめる。それだけをとれば容易なことかもしれない。言えるのは物事複雑に考えるのではなく単純に考えることだということを最近感じるものです。

簡略化し、簡素に削ぎ落として行く。厚化粧の音楽も薄化粧の音楽にすれば答えが出るのかな?

人生というのは一人で生まれ、一人で死んで行かねばなりません。人生も実りあるものになると厚みを増し、佳境に入ると薄くなるような気もしないでもない。

別段ここで自殺の勧めをしているのではなくて生きる力がなくなるというのはその人自身に迷いが多くなるからではないだろうか?そして他人を攻撃したり、なんてことがある。

こんなくらいは許されると思われる行為も実は目には見えない傷をつけているということもある。どこか傷をつけるというのは他人を追い込むが、実際自分にブーメランで帰ってくるような気がします。

それが自身の弱いところを他人に持って行くところで、期待し、勝手に裏切られたとか変なものに駆り立てられていないだろうか?というのを痛感する。

多くの知人に考え込み過ぎるとか、読書のし過ぎとも揶揄され続けている。特に本というのは害悪に過ぎず、読むことを勧めないという人もいました。

読んだせいで、可笑しくなるとも言われました。で、情報というのはテレビやラジオで済めばいいのかな?と。確かに最近ラジオを聴くようにという人を散見されます。否定はしません。確かに有益な情報を享受しているのはわかります。

忙しい時でもわずかな時間の番組を眠いながら聴くこともあります。

しかしそれ一辺倒では済みません。取っ掛かりとしてのラジオであればとは思うのですが、私の求めるものからすると足りないものもあります。もちろん制作関係者は準備をきちんと進めているのでしょうが、私の求めるものには足りないし、関心には至らない。

音楽という単体で見るならば、OOの音楽のどこかを抜き取ってとか、OOの和声の本を読んでとかありかもしれない。人にはそれぞれ興味となる対象物があります。

曲の表現の幅を見ると興味世界が広い人ほど、深淵な音楽を作曲しているのではないか?ということを感じます。音大時代どこでも何か1つそしてカテゴリーも1つ。と単体で何かを表現するというようなことを強要され、今を生きてます。

しかし実際、何も学生時代に何もかも選択するというのはどういうことなのか?学生時代に「日本歌曲は叙情的なものだけをすればいい」と。しかしある日、とある団体の委嘱作品の楽譜を入手したことがあります。

全く叙情的とは言い難い音楽だったことを感じました。現代音楽そのものでその作者のやりたい放題の作曲で大いに嬉しかった思い出があります。

私は学生時代はなるべく多くのことを経験して卒業する時に選択できるような形の方がいいのでは?と思う。実際人間には限られたことしか時間は割けないような気がします。

でも超人的な人も音楽史上にはいる。でもあれは例外だろうなとか思いますけどね。バーンスタイン。モーツァルト。私の師匠に「できる人はなんでもできる」と説教された人が過去にいた。

この言は何か一生つきまといそうな言である。そして音大受験に猛反対した師匠でもあった。絶対に落ちると。案の定落ちました。しかし音大受験に浪人はつきもので、私や友人も落ちたという声も聞かれました。

しかし入ったからいいとか入るレベルではないという話しで、日本の音大受験というのはなぜここまで厳しいのかわからないものを感じます。他の学部だと高校までの授業を一通り聞いて勉強していれば、受験には耐えられると聞いたことがある。

真意のほどはわからない。しかし音大受験は学校教育では耐えられないのが謎。でもある人を見たけど、受験科目にはすごい力を発揮し、お世辞に近ければこの人天才?と思うような人もいる。

ある人に高校までの勉強ができてない基礎学力をつけなさいと。よく基礎基礎と。しかし基礎ができているからと言ってそんなにいいものがあるのか?というような気がします。

実戦向きとは言い難い。基礎というのは何か?多分一生の史上命題かもしれない。試験やコンクールというのはある意味試合みたいな気がしますが、それが全てのように見てしまっていた自分がいたし、そう思わされることもあった。

どうもわかりやすいことには飛びつく反面、ちょっと複雑なことには手を引っ込めるというようなことも周りで見た。むしろ知恵の輪がどういう風になっているのか?崩して見る遊びやいたずらを巧妙にするから音楽がヒットする。

そんな気がしました。ある知人に人間は実験したらいけないんだ。とかいたずらしたらいけないんだと永遠説教される人もいた。しかし学問の進歩には人間の遊びが重要ポイントになっているようにも感じます。

モーツァルトの芸術は「遊び」これがないとわからないのでは?というのを感じます。音楽はいろいろな角度で切り込まないとわからないし、どんなものでも入口は単純でしかしそこから入ると広大な宇宙。

今、私は音楽でも俳句でもなんでもそうですが、「わかりやすい」をテーマに何かできないか?シンプルに簡素に。ということで私は多重アイディア主義者から単一アイディア主義に移行できたらと思うのですが、まだまだ。

課題が多いし、ハードルも高いようです。ただこうしたこと創作も削ぎ落とす時があるのか?というのはあります。各ジャンルに席はあるし、友人も多くいる。

しかし前段の下の迷い。今月号の俳句雑誌にも名簿を見ると亡くなったかた、退会されたかたとおるそうですが、1〜2ヶ月でやめて俳句の楽しみがわからないのではもったいないという主宰の記事がありました。

雑誌に投稿するということは特に気にはしないものの、記事を載せて存在感を出すということが大事なのかな?というのはあります。何も宣伝する意味での存在感ではありません。名前で今月も投稿しました。

とさりげなく。下手上手い関係なく採られた句が載るということで、やめてないというのは伝わります。以前考え方が近いのかなという俳人で雑誌の同期?っぽい人がいなくなったというのはちょっと読めなくなるというのはショックでした。

毎回句で動向を探るという意味で考えることもありました。

しかしそうは言っても、どこかで「人生好き勝手やっているだけで、人生には反省がまるでない」という声も以前はよく聞かれました。そしてある傾向のある人に攻撃されていたかな?

似たような人が評価。似たような人が攻撃する。そして似たような人が無言で去って行く。答えが3つもある。これがいいのかもしれない。

人には人なりに苦労もあるし、また解放と喜びもあり、でもその感動の得方は違う。言い訳になるのかな?話せばわかるというのはある。しかし別に能力というのは人生の職業様々な中で向き不向きもある。

しかしこの仕事でなければいけないとかないけど、血筋で大体職業というのは決まっているようにも感じます。その人の人間関係を見ればその人がわかるというのを自己啓発本で読んだけど、広がりのあるつきあいというのは、あまり聞かない。

同じジャンル毎につきあっているという印象。そういうのを押し付けたりすべきではないのかな?そういう意味で人間とは趣味というのは趣味なんだなというのを感じます。

同一化した趣味で時々個執?造語かな?個別的執着というのかある意味偏食的なところを痛感する。それを時々押し付けてくる。それも「正義」という名のもとに。

人生というのは迷って苦労して行くことで得るものがある。しかし苦労から目を背けるということにすればいい。などと。それをするから余計逃げたツケが回る。苦しむ時に迷って納得の行く答えを出して進路を見つめなおす。

ということが今、求められている。ただ、その裏側に、反省がない。音楽をしない。文芸もしない。向かない生業の仕事に専念する。これが一部の世間の声である。

しかし今している芸術表現は好きだからしている?今までそんな気取った気持ちで作曲したことがないけど、そういう風に見えるようだ。食えない純音楽の作曲は気取った音楽と思われているというのはマーラーとかブルックナーとかもそうかね?と。

伝記などを読むと相当作曲でストイックな気がしました。あれは別。とその人はいう。お前にはそういうものは見えない。実際お前は気取って好き好んで書いている。それが反省がない。

昨日古い番組「マエストロ」を見たけど、あれは高校時代見ていたけど、今、あのドラマ見るとすごい新鮮。指揮者の話で、は見た部分で判断すると驕り、傲慢。この2つが私にもあるんじゃないか?

とあの番組の最終回でマエストロは失踪。私もここで自書伝を書いているようなものだけど、去った偉大な演奏家を見ると傲慢すぎる私が許せないので去ったのかもしれないかな?というのを痛感し、もう出るべきではないのか?

しかし残った友人らはどこかで後ろで後押ししているところもありますが、それに答える力が今はない。やりたくないからとかではない。作曲のアイディアが指に出かかっている。しかし、書けない。
 

発軔


題名の漢字2字ですが、発軔とは枕木の最初。すなわち起点に今、立っているということです。以前「岩州遊草」という詩を書いたけど、やはり自宅が「発軔」なのである。

気持ちの起点というのは、「初発心」なのかもしれませんね。思った時がスタートだ。と言った人もあります。

気持ちの面で旧正月も過ぎて、さぁこれからというところなのだが、正月休みをしていたのかな?と。気持ちばかり前のめりですが。。。

2015年から沈黙を守る作曲。つい先日まで全てをリセットするつもりもありました。ある作家が作曲コンクールで結果を出さないと言って音楽資料を全て捨ててもうやらないと言ったのち、外国のコンクールで入選?だかで人生が変わった。

という話を聞いたことがある。何もコンクールや賞が全てではないが、全てという人も中にはいる。実績作りでですが。あれも何か見ていると私財のない作家の登竜門?とも言える。

実際私財がある人には多額の費用でオケをチャーターして演奏すればそれでも作家の仕事を果たせるような気がします。いいか悪いかは別ですが。実際とある本によれば、お金持ちは税金を必要としない。

という一文がある。公費で何かをする。例えば公立学校を建設するという点でお金持ちは私立学校へ行って、必要とするカリキュラムを履修し、社会へと旅立って行くようにも感じます。

作曲家の大半が無理をしているようなところを感じることがあるけど、中にはそうでない人もいる。別に委嘱で初演しなくても私財を投げ打ってすればいいとかそういう人もいるのを見たことがあるが、実際どういう形態なのか?

本人に聞いたこともないが、側で見ていると儲かりそうになく(演奏家料金も満たない)というこじんまりしたものがあるが、どれがいいのか?

しかし私の現状として作曲をするな。という声も今まで少しあった。しかし今、あるのは少し演奏したいという声もある。

演奏しない。取り上げない。この断固たる意思表示をされる演奏家、作曲家は今や第1党ですが、どこかのコンサートのチラシを見ると「笑い」「中原中也」を打ち出す作曲家のコンサートがあった。

私のような1楽曲に2つを出すということではなしに、1人1つみたいなものだった。これは何を意味するのだろう?もちろん私より若い世代のやることですが。

私の音楽はコンサートシーンから消えたけど、キーワードは残っている伝承されている。ある知人が最後の方、「ようやく時代が君に追いついてきた。だからあと少しだ」と言っていた時期が数年前にあった。

しかしこれがなんなのか?よく意味がわからなかった。また、漢詩界でも似たような詩を書いている若い詩人が出ている。もちろん私の詩よりうまいので私は負けた気がしたが。

ただ申し上げるには俳句、短歌。意外の分野では若い世代が私の影を追っているのでは?と思ってしまうことがある。自画自賛ではなくて。なぜ、ここに至るのか?

世間にあれだけ叩かれてしかしある世界では私の世界が出ている。でも実際その作曲家が私の音楽を聞いたことがあるか?これ自身が自信がありませんが。しかし私が、20代からテーマとしていた「笑い」が以前私をこき下ろしたコンクールの本選に別な作曲家の手によって出ていた。

それがやたら新鮮だったということ。その昔その審査員がやっていたコンクールでも同じようなことをしたが、ゴミにされたことがある。作曲賞というのは楽譜にムードで決めるものなんだというのを海外のコンクールでも感じた。

これは世の中の病理現象なのかもしれない。某作曲家の戦歴を見てすごいすごいという経歴をみた。しかし世の中で流行している作風の中で聴きやすいものが音になっている。

そんな感じを印象として受けた。私の耳が悪いのかもしれないし、また才能がないから私の「笑い」「中原中也伝」がうまく伝わらないのではないだろうか?

うまくまとまらないが、私の発軔で何かが変わるか?という意味において今秋に公募があるのでその準備をしてみたいとかそういう野望がある。

現段階では作曲をするなという声は聞かなくなった。演奏も紹介もしないという声は未だに大きいが、弱い声ですが、演奏会はまだか?という声もある。

ある本ですが、演奏家にとってギャラが安くて不満という声もある。しかし、若い演奏家にとってギャラで仕事を選んじゃダメだということが書いてあった。古典の本ですが。

これもどこかで見たけど、お金持ちはお金のために仕事をしないとかいう話を聞く。貴族的に行かないとダメだという。しかし仕事とは生活もかかるわけで、特に現代音楽の初演とは演奏家をチャーターするということ、会場費、それから資材に多額の費用がかかるので演奏家費用を賄うのを少しでも安くあげておきたいという声はある。

かくいう私もその一人ですが。私の考えとしては演奏家はここで生活費を稼ぐということを考えていただきたくないというのがある。寸志ということでということを認識していただく。申し訳ないことですが。

しかし最大限その才能を引き出してかつ目立つ演奏ができるような作曲をする意欲がどの作曲家にもあるはずです。依頼するというのは謝礼で判断されるのではなく、依頼されるというのは才能を買うということです。

身銭を切ってでも演奏をどこかで聴いていたいということがあるのですが、必ずしも演奏代金が合致するものではないにしろ、仕事の中身では損はさせないというのはあります。

ヴィルトゥオーゾな世界で必ず伝説に残るコンサートに仕立てたいというのは思いにはある。先年来のいつ頃かは判然しないのですが、上り詰めた何か精神生活が、下り詰める精神世界が真坂という名のもとに変わる。

今年、坂は3種類あるという話で上り坂、下り坂、真坂。

とある。

と聞いた。結婚式の挨拶でも随分使い古されたという話でした。私は自慢じゃないけど、結婚式というのは片手で数える程度しか呼ばれていない。

友人関係がそれだけ素白か嫌われているからかもしれない。その分ご祝儀をはずまずに済んだというのはありますけどね。真坂というのはどう転がるかわからないそうです。

そういう意味で、今年は風向きが何かが違うような印象が今も続いている気がしますが、安全に新鮮な生活がきょうもありますように。とそういう意味で生活というのは増えることも減ることもない。

不増不減かな?
 

節分


気持ちの問題ですが、今、日本は冬ですね。当たり前のことだけど、早く春が来ないか?と待ちわびている国民もいれば、冬を満喫されたい方もおるでしょう。

私は早く春が来て欲しいものだとこう思う人の一人であります。明日は立春で春に入りますが、気持ちの上で、春。旧暦のままなのかな?という気もしないでもないですが、先日旧正月をいたしました。

1月28日元旦で本格的な初詣というのをいたしました。別段何か変わるということではなしに、以前こういったことから遠ざかるとご利益がなかったとかこういうことをしたからご利益続き?だったとか。

いろいろありますが、基本こういうのは習慣ではないかな?一回くらい休むくらいならまだしも2〜3回間が空くと続かないということもありますね。

2012年の今頃はある意味幸福の度合いもハッピーな感じだったけど、それを休んでしまう。あるところでは一週間の反省をしないままがむしゃらに行ったからとか感じたりもしました。

芸術分野では排斥されるまで発展。ま、でも私から回避したという面もありますが、なんだかまとまりません。詩人と音楽家は無責任な人が多いことがわかりました。

しかしこれがいいとか悪いとかではありませんが、節分で何かを感じるという点において、ある意味今が正月なのかな?というのはあります。

音楽は現代音楽ばかりの日だったけど、音楽はモーツァルト一辺倒になりましたね。今、気になるのはモーツァルト作曲ピアノ小品K.33bです。

これのオルガンバージョンがすごい。クラヴィコードで奏するよりオルガンの方が効果的な気がします。実はモーツァルトもオルガン曲がうまい人なのかもしれない。

私は歴史に埋もれている曲を探すことが今好きですが、同時になぜ埋もれているのか?というのが気になります。モーツァルトといえば、「魔笛」「レクイエム」「ジュピター」ですが、私は「ピアノ協奏曲第25番」を推す。

これはすごい。なぜいいのか?というところまでは分析が進みませんが、実はこれを演奏しやすいように編曲してみたいという構想もある。

1管編成(フルートなし)で打楽器、ホルンなしトランペットあり、弦4部(コントラバスなし)を構想しているが、まだ始めていないが、これもいつかは機が熟したら着手したいと思っています。

ただ、何が阻害しているか、目下第1に予算ですね。編成をもっと削るとなるとどうなるのか?というところ。予算を削減すると編成を縮小するということです。

実際この協奏曲の編成はそれなりの大きさであり、縮小するには、大げさに言えば再作曲の様相が見え隠れする気がします。そこまでの大胆さはモーツァルトにはできません。引用作曲はありかもしれないが、作曲の上に作曲。

これは行き過ぎている。まるで躊躇する場面が逃げの口上にも見える。そしてフェイスブックで落ちていた公募の作曲賞?に挑戦も考えてはいる。かなり前向き。

ただ、この楽器に作曲はしたことがない。あってもその昔、大オーケストラの編成で使ったという程度です。この楽器で声明か雅楽の研究論文をエッセイで書くようなつもりで小品で作曲するという形です。

ソナタではありませんし、無伴奏独奏曲。時間は2〜2分30秒程度とのことでした。時々これがピアノならやりやすいかもねという気になりましたが、昔から一捻りある楽器での作曲ばかりなので、ある意味いつも通りかな?という。

そんな感じもします。どれも実現にはまだまだ道のりありますが、まず、楽曲分析からかもしれません。これについては様々言われますが、自分だけのやり方で作曲をする。

しかし部屋の中異常に寒い。窓が開いているのではと隙間風が気になる。きょうは暖かくなるはずとラジオで繰り返している。あれも嘘つきなのだろうか?

あるところで嘘を100回言えば真実になると聞いたことがある。最近の天気予報は外れが多い。寒いと言えばいいのにと思うこともある。1月上旬の寒さといえと言いたい。

しかし3月下旬がやがて来る。某ローカル線で見ていた、桃の木のピンクに染まる木を見て、何も変わらない1年成長しない、いいなと思っていた友人師匠がいなくなり短大2年がなんとなしにストレス解消な人生だったかな?

人並みの幸せはあったけど、でもそれで満足とはいかない。と、毎年、3月下旬から4月上旬とは又一年が過ぎたと看梅とか観桜などというときは時々暗くなるものです。

芸術の分野とは新しいものがもてはやされます。近代諸価値をなんでも信じる世界ゆえのことかもしれないが、時々伝統も見るべきだなという気がいたします。

節分というか、また感懐でしたね。

さて節分で豆を食べたい気もしますが、なんだか、それだけ歳をとったのかな?あと何年生きられるかわからないけど、紛失したものはもう見つからないのだからと諦めていこうと思います。
 

元旦の計は?


最近感情を外に出そうというのを抑えるというのを目標にしているのですが、しかしそれをすると余計出るようでまるで時々怒りが表に出過ぎとのご指摘もあります。

しかし煽動する人というのはあまりに大きな力があるので記載しませんが、誰にでも面白くないことの一つはあるはずです。また逆もあります。

先日来というかここ数年空転な生活を送る退屈男でした。論点を挙げれば物足りない。キリのない空虚な生活だったが、それ自身になれつつあるけど、やっぱりどこか何もないというのはダラダラするだけです。

例えば、仕事をしない生活を1ヶ月〜2ヶ月するとした場合。最初の1週間は楽しいでしょう。寝るにはいくらでもキリなく寝ることができる。また音楽も食事も自由。

でもそれも飽きるときがくる。特に現代人というのはカルチャーの進んだ時代で何かをしていないと落ち着かないというような人が多い。絶えず、何か行動しないと落ち着かないという人も中にはいるんじゃないだろうか?

かくいう私自身もそういう時代を過ごしました。仕事を休んでも落ち着いていられない。じっとしていられないというか?坐っていられないので読書をしたりする時間ができなかった。

作曲をするにしても短時間ならば集中するが、それを長時間するとなると耐えられない。今もですが、2時間以上はしないことにしています。2時間以内に作曲をやめて違うことをする。

そして違うことというのは読書や寝る(朝寝)などをするということですが、時間が合えば友人らと会食やお茶のみをします。そういう日は平和なものですが。

さて実際感覚というのはそれほど大きな差異はないと思うのですが、感情を表に出さないというのはとても大事です。人に読まれやすいからです。

この頃生活が潤ってきている。というのは実生活の他に少しずつほころびを治す動きが出てきているからではないだろうか?ある知人に私は我慢が足りないということを聞いたことがある。

多少足がしびれても正座して食事をするなどいう行為も大事だと思います。まだまだ周りには心配される方もいて、また私の動向が気になるような人もおられます。

奇跡だと思う。今年はもう少し芸術論を鍛えるとかそういう野望が少し出て来ています。そういう意味では各方面ジャンルの人にあれこれと言われるかもしれませんが、少しずつできる範囲で片付けていければと思っています。

そういう意味で明日旧暦で元旦を迎えるので、元旦の計を考えてみたいと思いました。

もう少しインスパイアするものがあれば詩文でも作曲でも影響あるんですが、これも少しずつ考えていきたいと思います。
 
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