この頃


先週の土曜から昨日まで連続勤務をしていた。別段やれとかそういうことではないのですが、いいやでやってしまった。ところが、昨日時間が過ぎると帰宅できるのですが、もう何か感覚というか、何をしているのかもうない。

やっていることにいちいち不安になってしまって動けないので、2度確認してOKしたらその場を去ることをして難を乗り越えた。相手のあるものはしていない。

昨日は漢詩大会の応募手続き等をしたが、眠くて間違いがないか?気になっていたが、無事終えた。

しかし昨日はもういくらコーヒーブレイクをしたところで何も手応えなくて、夕方には床に這入ってしまった。

とにかく6連勤というのは普段やり慣れないことをした感あるけど、早朝の創作時間を含めると相当なエネルギーを消失したな。という気がいたします。

ところで私の音楽の出発点というのは八村さんとシュニトケの音楽ですが、シュニトケの交響曲第9番をこの頃しつこく聴いています。実はこれ未完成だそうですが、病気でもう口が聴けないほどのの重篤な状況で作曲されていたという。

80年代にブレイクしたとのお話ですが、実際演奏されない苦しみもあったそうで、誰しもどこかで苦しい思いをしつつ作曲して音楽と向き合うということをしている。またこの交響曲だって自分自身が聴けるかどうかもわからないのにもかかわらず作曲。

作曲家にとって病を押すというのは何かあるのかな?またシュニトケ氏はあまり体が丈夫ではないとのお話も聞いたことがあります。漱石も晩年の12〜3年の創作で全てを作ったという。

作家にとって病とは何か?中也も長男を失って以来何かがおかしかったという詩の印象。美しさの裏に何か悲哀に満ちたものを感じます。でもその後だんだん中也は詩が書けなくなって行く運命にありましたが、しかし最後の四行詩の深淵さには感服ですね。

いつかそれに音楽を蛇足ながらつけられる日がないか?と暗中模索しておりますが。とにかく難しい詩です。そして美しい。あるところで制限(病)のある生活の中でギリギリのところでやるから何か創作がうまく行っているとか?

しかし実際過去を見ると頑強で健康でという人に天才的な仕事をした人というのはあまり聞いたことがありません。中にはいるでしょうけど、絶対ではないですね

しかし昨日は食うものも食わず寝てしまったので空腹がひどい。おまけにバテた感がありますのでこのへんで。
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忙殺期間


俳句大会と旅行と二つ経験し、さらに何か?と願う一方でなんとなしに遊びすぎじゃいかんだろうと思ってきた。と。体調問題も解決してきたので、仕事優先とした結果。潤いがまた戻りつつある。

仕事上の問題とかはあるにはあるが、ないのは目標。しかしこれも色々自問自答などを繰り返すと結果も自ずと出るという形になり、そう多くはないが、2つだけ目標を立てることにしました。申し上げません。

しかしそれは会社がどうのこうのではなく自分のモチベーションの問題なのかな?と。今のままだと平な道。今度はここまでできたからと自分に負荷をかけることかもしれないということを感じます。

そこで思いにかられる。そして出勤前に俳句や漢詩を詠んだりする。正直あまり褒められた話ではないが、生きる上で大事なことかもしれません。おかげで昨日俳句を10句投句させていただきました。

さらに漢詩を1首。を作詩。これも提出予定です。2月から考えるとこれで5首。毎月1〜2首は作詩している計算で書いている。ただ書くだけではなく読まねばと思っているが、そこまで回りません。

中也に名言で「苦労だけはしなさいよ」というのがずっと残っている。それは仕事という負荷もそれなのかな?人間誰しも不労収入がもらえてボーっとしていたという人は多い。

しかしどうだろうか?何もしないでいいから20分座ってください。と言われて簡単にできるものだろうか?実際何もしないで座ってみるといいかもしれない。例え足が痺れても動かさずに耐えるということだ。

なんとなしにそれができないのにと思う。しかし耐えたから何かができるということではありませんが、ただ不労でいくということだ、何かが飽きる。実際、私もそういう生活も経験したが、1週間くらいはいいけど、あの時は友人が多かったので暇になることはなかった。

しかし何か物足りないものを感じていた。友人のカテゴリーのバランス体系が崩れた時かもしれない。どことなしか会社の同僚とも飲んだりしていたのでそういう付き合いがなくなるというのは物足りないものを感じたこともありました。

生きる力がないというのは疲れた。しかしでもその癒しも見えてきたのである意味心身疲労も取れたのかもしれない。仕事と趣味を両立させていくことだな。
 

笑いについて


笑いというのは大事だというのはある。作り笑いに何か意味があるのか?というのを感じる。お笑いを仕事にしている人には解せないお話かもしれません。どこか最近何かをするというと何かをこね回し真面目にものを作りました。

と、最近常々呆れてみていることがあります。音楽もそうですが、そのことのみに集中して作成している。他ジャンルの影響はなくこの音組織でパラメーターがどうとか述べて俺は苦労した云々を述べている。

確かに計算で骨を折るご苦労があったことでしょう。しかしそれは家で何か自己満足的な数式計算をして全問正解する快感を得ているようにしか見えない


側で見ると計算のできない人から見ると楽しそうと。楽しい生活で何が疲れるのかわからないというようなことがある。

作曲をしているとそういう声もあります。作曲の道具箱って正直な話普通の人は雑学は見ていないところがある。また見るべきところは違うかな?小説を書く人が何かを表現するということになって取材をするかもしれない。

しかし妄想では書けないと思う。ところが空想や妄想で書いていると思っているとしかし私はそうは思わない。断片的には創作の世界かもしれないが、それをどこかで見ているから書いているから言わば記者のようなものだと思う。

作り笑いで笑いを表現する。自然に出る笑い。以前は「男はつらいよ」で真面目に笑っていたが、最近は真面目に見てしまう。それは笑ってしまえない話しかないからだという。

どうしても笑いというのは下ネタでしかウケが取れないというのはとても残念な話で、私は中也の詩に笑ってしまうことがある時がある。実際狙うことがあるのかもしれない。詩を涙ながらに読む場面もあり、笑いを誘う場面もある。

最近見ていると変な頑固さが各職業に見受けられることがある。それが日本人なのだろうか?と言ってそうではないのもわかります。それだけ必死でやってますということなのかもしれない。余裕がない。


ある時どうしても忙しいという時に草木を見るゆとりは残しておきたいという声も聞いたことがあります。そういうのがなくどんと構えることがない人が多くなってしまったのかな?そしてどこか客層を選別しているところがあるような。

最近の笑い世界というのはどうも最近のネタというのは新聞やネットで得たものというのを聞いたことがあるが、でもあれも限界かな?というのはあります。商売ものでどこかの会社がAという商品を作ったらその真似をして出す。それはその会社らしいようにアレンジするという開発の人から聞いたことがあります。


どこか人間のやることとは似ているかもしれないが、真逆のことをして見たい。笑いでも自然な笑い話の方に目を向けるということがあってもいいのではないだろうか?という気がします。


「笑い」とは自然に出るものが一番だと思います。
 

久々に



健康面とパソコンの方がダメになり、今日は久々にパソコンに会いました。パソコンというのは大事なものですから大事に使わないといけないと改めて感じました。


健康問題で重大な危機がありましたが、克服しそうな感じになりました。ところがまた別に問題が発生してしまい、堂々巡りです。と、結局何かに追われてしまう。

勤務も1週間欠勤しましたが、先週と今週はなんとか。持ちました。しかしまだなんというか問題もあります。

さて俳句も短歌も漢詩もまた新たな年度が始まりました。間髪入れずに行こうという気になりましたが、まだ問題があるので考えないとかな?というのはあります。対策を講じても実際は難しい。

しかし一切合切を捨てろ?ということではない。一つずつ丁寧に処理して行くことかもしれない。何か問題があっても毅然とした態度。しかしそんなに甘くはないかもしれないが、少しずつ慣れていこうという気がします。

さて交響曲は健康面で問題が起きる前までに第2曲まで作曲。5曲とコーダをつけていく予定にするが、コーダが思いつかない。まなんとしてもというようなことでもないが、学友たちが、勉強のために私の音楽がどうしても必要らしいです。

ある指揮者がどこかで言っていたけど、同じ曲を同じように演奏する意味に何か意味があるのか?と破綻のない芸術は面白くない。実にこの人だったら理解するのでは?という気はしますが、超有名人なので恐れ多い。

私には私の小さな楽団があります。ま、それでいいとしよう。
 

暖かい日だまり


この頃何がなんだか?と正直なところ平穏無事な生活ではありません。しかしなんとか生きているというか?面白くもない生活があります。

しかし俳句や短歌は量産できていいというか豊作なので、そろそろ自選7句をしないといけない状況ですが、、蛇足で、郵便局へ行く体力が今ないのです。

そのうち何もできなくなる最後の末路なのかな?という気はしてきてとてもなんかまずい状況なのか?と落ち込む毎日であります。家の外では国会が荒れていますが、世間とは蚊帳の外なのかもしれませんね。

と、あまり身近に感じられなくなっていることにまた認識が進みます。朝刊でも大々的に書いていますし、なんだか騒ぎの中心ではないので、何もないのかもしれません。

かつてはそういう意味において騒ぎの中心を牽引していたが、権威は失墜。今や権威は地に落ちたものです。でもどこかで音楽を感じていこうというか?そういう気になります。

中也の生涯を時々自分の人生と照らし合せては境涯のにたところが親近感がわくし先人の失敗を参考にしつつも人生の舵を切ることはありますが、必ずしもうまく行くものではありません。

しかし時々そういう音楽に携わる人もいていいのかもしれないというものを開き直りで感じます。音楽家人生に空白があるということはいいのか?そういう人もいるのを知っている。だが、このままでいいとは思ってはいない。

しかしあと何回春が見られるか?かなり心配ではありますが、なんとなしに不安にかられる春の未明ではあります。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番の第3楽章のリディア調の音楽のような気分のいいものがあればと感じます。

音楽はどこかで感じないと何もない。何か歯車が狂うような気がしているのですが、ある人はそのエネルギーを仕事に行かせと説教を繰り返します。

最近「働くということは」という本を読んでなんとなしにその意味がわかるような気がしてきました。読了後私の人生というのはきつく言えばどこか中途半端なところがあり、本来は委嘱やどこかの教育機関で仕事を音楽ですべきもの。

ところがそういう仕事を一切してこなかったし、また今までそういう声もなかった。これからもないと思うが。だから平和でいいのかもしれません。

ところが二足のわらじというのは存在しないような声もあります。実際過去にもそういう声を現場で多少聞き何か違和感を覚えたけど、聞いた人も何かを感じたのではないだろうか?

なんというか音楽を特に生業としているわけではないが、そういう仕事のようなことをしていて時々そちらを優先されてしまう。ある意味その会社としては雇っているにこれでは何の意味もなくなってしまう。

どこかの会社で本業はここでしょ?そういうのをすべきではないという声を現場で聞いたことがある。実際おっしゃる意味はその時は何も感じなかったが、今になってその本での知識でなんとなしにわかるようになる。

家で無難に音楽を聴くとか漢詩を読書するならいいかもしれないが、作曲し発表しというととても何か褒められるような気が最近しなくなってしまった。以前会社の人と趣味の話、趣味の友人と趣味の話をしたことがあるけど、趣味の範囲というのは仕事の力量を超えない範囲ではなかったかな?というのはあります。

その意味では私の趣味というのはどうも無差別になんでもやってしまっているので、線引きが難しいこともある。また身分も趣味の友人には理解できない人もおることは確かです。

会社というのは極端かもしれないが社会的な地位を与えてくれているのでそういう見られ方は好ましくないのかもしれないが、実際私の最近というのは何か見当違いな場面と発言が目立つので改めないといけないようなことが多くなっている。

しかし別段何かを否定するものではない。今、思うことは当たり前の生活がいいということです。今は不自然な生活。どうしてくれようか?ということです。健康とは大事なことだなと再認識しました。朝が早いのはいいけど、また途中から体力の限界となることでしょうか?ではまた。
 
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