暖かい日だまり


この頃何がなんだか?と正直なところ平穏無事な生活ではありません。しかしなんとか生きているというか?面白くもない生活があります。

しかし俳句や短歌は量産できていいというか豊作なので、そろそろ自選7句をしないといけない状況ですが、、蛇足で、郵便局へ行く体力が今ないのです。

そのうち何もできなくなる最後の末路なのかな?という気はしてきてとてもなんかまずい状況なのか?と落ち込む毎日であります。家の外では国会が荒れていますが、世間とは蚊帳の外なのかもしれませんね。

と、あまり身近に感じられなくなっていることにまた認識が進みます。朝刊でも大々的に書いていますし、なんだか騒ぎの中心ではないので、何もないのかもしれません。

かつてはそういう意味において騒ぎの中心を牽引していたが、権威は失墜。今や権威は地に落ちたものです。でもどこかで音楽を感じていこうというか?そういう気になります。

中也の生涯を時々自分の人生と照らし合せては境涯のにたところが親近感がわくし先人の失敗を参考にしつつも人生の舵を切ることはありますが、必ずしもうまく行くものではありません。

しかし時々そういう音楽に携わる人もいていいのかもしれないというものを開き直りで感じます。音楽家人生に空白があるということはいいのか?そういう人もいるのを知っている。だが、このままでいいとは思ってはいない。

しかしあと何回春が見られるか?かなり心配ではありますが、なんとなしに不安にかられる春の未明ではあります。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番の第3楽章のリディア調の音楽のような気分のいいものがあればと感じます。

音楽はどこかで感じないと何もない。何か歯車が狂うような気がしているのですが、ある人はそのエネルギーを仕事に行かせと説教を繰り返します。

最近「働くということは」という本を読んでなんとなしにその意味がわかるような気がしてきました。読了後私の人生というのはきつく言えばどこか中途半端なところがあり、本来は委嘱やどこかの教育機関で仕事を音楽ですべきもの。

ところがそういう仕事を一切してこなかったし、また今までそういう声もなかった。これからもないと思うが。だから平和でいいのかもしれません。

ところが二足のわらじというのは存在しないような声もあります。実際過去にもそういう声を現場で多少聞き何か違和感を覚えたけど、聞いた人も何かを感じたのではないだろうか?

なんというか音楽を特に生業としているわけではないが、そういう仕事のようなことをしていて時々そちらを優先されてしまう。ある意味その会社としては雇っているにこれでは何の意味もなくなってしまう。

どこかの会社で本業はここでしょ?そういうのをすべきではないという声を現場で聞いたことがある。実際おっしゃる意味はその時は何も感じなかったが、今になってその本での知識でなんとなしにわかるようになる。

家で無難に音楽を聴くとか漢詩を読書するならいいかもしれないが、作曲し発表しというととても何か褒められるような気が最近しなくなってしまった。以前会社の人と趣味の話、趣味の友人と趣味の話をしたことがあるけど、趣味の範囲というのは仕事の力量を超えない範囲ではなかったかな?というのはあります。

その意味では私の趣味というのはどうも無差別になんでもやってしまっているので、線引きが難しいこともある。また身分も趣味の友人には理解できない人もおることは確かです。

会社というのは極端かもしれないが社会的な地位を与えてくれているのでそういう見られ方は好ましくないのかもしれないが、実際私の最近というのは何か見当違いな場面と発言が目立つので改めないといけないようなことが多くなっている。

しかし別段何かを否定するものではない。今、思うことは当たり前の生活がいいということです。今は不自然な生活。どうしてくれようか?ということです。健康とは大事なことだなと再認識しました。朝が早いのはいいけど、また途中から体力の限界となることでしょうか?ではまた。
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感懐


某雑誌俳句新人賞3回連続失格記録。

正直思うけど、賞ってなんのためにあるのかわからない。受賞作を読ませていただいたけど、玄人にはいいのかもしれないが、私には何がさっぱり。また受賞年齢もかなりの年齢だった。

失格理由を聞いてみたが、わかりにくい表現だという。それって理由になるのかな?という気がしないでもない。以前某新人演奏会のオーディションの最終審査でのコメントもわかりにくい。

そういうコメントをいただいたことがある。しかし審査する人と審査の権利のない人の意見では二つに分かれてしまう。あれは一体なんだ?という気にはなる。

自画自賛になってお恥ずかしいが、今回の俳句だって、第3者の閲覧を経て選句し推敲を重ねた言わば厳選された20句です。その句にさらに何か手を加えるということになると形を変えるよりというか詠まない方がいいのでは?と。

蛇足ながら感じてしまうのであります。ただ今の俳句界には理解するというには時代が早すぎたと思うしかない。これは太宰治、中原中也でも経験されたことなのでなんら恥じることではないという気はあります。

仮に私に才能がなければ、協力してくださった友人は手を下すことはなかったと思っている。それはその人の時間を奪うわけで暇つぶしなら自分のすべきことをおやりになる時間を私にくださった。

そういう意味では感謝しなければなりません。あれで4回はもう無理だと感じた。絶対に採点されないんだなと実感した。というか私の力では審査員の目を動かすことは絶対不可能だと感じた。

と、ある師匠にオーディションや賞で世に問うのではなくコンサートで問いなさいと言われたことがある。そういう意味で文学賞もその一端かもしれない。

ときょうはあるところで俳句をやるということをまっすぐみるということで、何が大事か?というのを考えさせられたことがある。ある意味我が道を行くという意味においては他者の意見はいらない。

すなわち、それを脱落し、俳句に進むもののみを探すことではないでしょうか?という結論も出そう。しかしながら理解されないところでやるしかないというのもあり、伸びるものもあんまりというのはある。

ただ、音楽でも文学でも集まりで話をするのはいいものを感じます。芸術的論争は大事だというのはありますけどね。でもどこも私のようなよろづやはいない。

性格上何か2つ以上しないとうまくいかないようです。0か2ですね。ただ0は正直種すらないので難しいでしょう。体調面が不完全なので少し閉口気味ですが、交響曲の作曲も完成予想図はできましたが、2パターンできました。

どれを?というのをこれから思案して行きます。このジャンルは初めて着手するジャンルで、どうも新もの好きなのかな?と。そういう意味でネガティブな思考もありました。しかしポジティブな思考も少しは残っています。

無理をしたいが、できない体力。迷っているがもっと迷うということをしない。でも面白いとも言えない。失格こそ才能。だから諦めろ?という声もあるが、実際どうなのか?片一方では評価されている。

私はいつの時代かに評価されると信じているとかそういうことではなしに書きたいから書くという答えを優先させるべきではないか?ということです。確かベートーヴェンの第九の報酬はとても少なかったと聞く。

しかしあれを報酬で書く話ではなく純音楽として作曲したはずです。確か。私の好きなモーツァルトのピアノ協奏曲第25番もその一曲。私費で開催したコンサートという意味においてあの両者は作曲したいから作曲したということはある。

太宰や中也が賞を落選し、諦めて書くのをやめたか?というと全くそういうことはなく作家活動をしていたように思います。またベートーヴェン賞落選のマーラーはのちに大地の歌などを作曲し全世界で演奏される作曲家へと成長。

一方ベートーヴェン賞でマーラーに勝った人の曲や名前は私は聞いたこともないし、ラヴェルがローマ賞に落選したという話でもラヴェルに勝った人(1位になった人)をよく知らない。

そういう意味で賞には有名人にはあまり意味のないものなのだろうか?というのは感じます。そう考えると受賞者が将来傑作を取るということはあまり約束されていないように思います。むしろ取らなかった人の方がその分野の歴史に名前を残す傑作を作曲されたという印象があります。

どこでもそれを主催する人のブレインになって考えるとそう大きくはない場合がある。時々その幅の狭さにこれで我慢しろ的にも取れることがある。甘んじてそれを受け入れざる得ない時が正直ある。

賞が大きなものだろうな。受賞者の作品の面白さというの私にはない深淵さかもしれません。もう一回読んでみるかな?私のはゴミだから仕方ない。

でもこれで出せと言って安易に言えるものではないというのがわかっただろうな。正直その賞で3回連続失格になった人がいただろうか?3回連続失格になれば金輪際入選しないことは誰の目にもわかるかもしれないし、結社での出世もないことがよくわかった。

要するに現代の世相的にな考え方でどこの分野でもこのくらいで我慢しろ的なところがあり、それが義憤なところなのではありますが、実際その人自身の才能測りをする能力の見識のなさを疑いたいことがある。

どこかである知人が人工体より自然体がいいと言った人がいて、最近その声がやたら新鮮な気がしてならない。ある意味人間は人工的に練り上げるということを考えているが故に素材そのまま感で練り上げるという世界は新鮮さがあり、逆に難しい。

何か新しいことをするということは危険はつきものではないだろうか?そういう意味では失格=才能否定?とはならないような気もしないでもない。

音楽でも文学でもいい。どこか練り上げるということに執着している人には私の音楽も文学も理解することはいつになってもないということは感じられている。

果たしてその中で何をしていくか?やめるか、理由付けもある意味ここから必要になる創作世界。単純に書きたいものがあるから書くでもいいが、書くものは正しいか?それだけです。しかし歴代の有名作家を引き合いに出すと賞で人生が変わることはあるが、創作活動の引退はしていないことは確かです。

実際作家にとって賞ってのは難しい選択ではあるんですが、しかし審査員が審査できないということもある。私の好きな交響曲にロットの交響曲があるが、やはりベートーヴェン賞で落選したが、傑作だし、第3楽章が特に圧巻。

マーラーの交響曲第10番第2楽章を先取りしている。あれを19世紀のうちにやってしまうのになぜ笑い者?と初演に携わった人たちの理解力のなさに何かもったいないような気がしましたが、私は出口の見えないトンネルにまた戻ってしまったようです。
 

無謀希望


まだ朝が来ていないのかな?という夜明け前ですが、幾分眠い。さてここのところ暇を見つけては作編曲等の時間を割いている。そこに資料に目を通したりしているが、楽譜を読んだことがない楽器がある。

全く読んだことがないわけではないのですが、オーケストラの総譜しかありません。まだ、別段購入計画があるにはあるのですが、どの段階でというのはまだ考えてないのですが、一応読みたい。

今何を取りたてすべきことか?と問われれば、新作交響曲のスケッチを進めることかもしれませんが、目標的な観測も出ていて新作交響曲の中身はややかなり松平頼則氏の「ピアノとオーケストラのための主題と変奏」(1951)に近い。

作曲中資料にこの楽曲に出くわすことがある。現代人の資料として弱いか?というイメージがある。現代人は近代諸価値で最新のものばかり追うようなところがある。

しかし60年代とか50年代の音楽というのはあまり注目されないようなところがあるといえばある。ところが某作曲家の音楽。ここでこき下ろす。

とYouTubeで今話題のなにがしという女性の音楽というのを聞いた。もちろん若い作曲家である。私とスタンスが違うのが西洋のグローバリズムの中での作曲という意味でアンテナを広げるという点で違う。

つまりなんというか音楽は狭い世界の中のジャンルにおけるジャンルという狭い語録になるのでは?そして顕著なのが狭い範囲で不適切かもしれませんが、近親的なにおいの中での創作。

どこかの有名な作品例えばクラシックの名曲の一つの焼き直しがここで狭い範囲で行われるということである。それでいて新しいという。そういう意味で作曲が編曲に変わるのではないか?という気がします。

どことなく現代音楽シーンにおける音楽の中身の変容がある。しかし手としてあるものの音楽自身の発展になるのか?という点で結局狭い範囲で進む作品提供で劣化した音楽の競い合いの連続ではないだろうか?ということです。

作曲というのは違う角度から見るということが大事じゃないか?歴史上に残っている名作はその時代の異端というようなものじゃないか?ということが言えるからです。

しかし先程申し上げた女性作曲家。この方に限らず、日本の現代音楽シーンの作曲家のほとんどがOO作曲賞受賞作家ということで知名度抜群なのですが、以前もCDを購入して取り寄せたことがありますが、なんというかその時代の様式をうまくまとめ貼り合わせたにすぎないところがあります。

しかしどうだろうか?パッチワーク作曲がそんなにいいのか?ということで作曲というのには今失望しているところです。と、見渡すと私の音楽というがなぜこれほどまでに批判され続け頽廃的扱いになるのか?

気にはなります。楽譜を読んで去る。そんなに会って話もしたこともないのになぜだろうか?人はなぜこれほどまでに私を否定したがるのか?どこでもどのジャンルでも否定から始まる。

そして評論家のように助言ばかり。そんなにダメな作曲だと言えるか?としかし感想を求める何もいえない。これは図々しい人です。またその人に意見すると受け入れていただけないことが全部。

異見というのなのだろうか?というか、何を申し上げても否定。ある人は合わない人に無理に合わせることはないですよと助言されたこともある。

どうもコーヒーが苦いとどうにかこうにか味をまろやかにしてみたいとかそういう努力はありますが、それが行き過ぎるのかもしれませんね。

眠いから何もしないとかそういうことではなしにそのことを利用ではないが、あるといいかもしれませんが、昨日はなんだか集中しないところがあり、残念な結果になってしまいました。

こうした膠着状態から解放されるべくことをこれから行う予定ではありますが、何が大切か?きちんとわけ3月尽に向けてやっていこうということです。

無謀も希望に変える。創作の圧縮比率はとんでもないものですが、交響曲を完成させるが目標に向けてやっていく。これが新しい地平線かもしれません。アイデアは出た。次はそれを伸ばす。

伸ばし続けた先に完成の二重線です。コーヒーブレイクのしすぎには注意していきたい。しかし寒いものがありますね。きょうは暖か温暖な日と聞きます。少しその恩恵に預かる漢詩を書いてみたいものです。

そして作曲。
 

追風


ここ最近体調不良でおりました。どうも調子がいいと動き回り過ぎたようです。さて、この頃ですが、作曲の方が少し持ち直し、目指す世界が見えたというか、なんというか完成の想像図が脳裏にできた。

そういうことがあります。去年の北風世界ではあり得ない出来事でした。どうやって完成させるか?この一点で考えていくと道筋も立てられず、ゴールのない作曲になってしまい途方もない絶望にかられたものでした。

しかし答えが出るとある意味完成への方程式というのを考案すればいいのです。演奏されるか?どうかこれについては二の次です。今、注目の作曲家は松平頼則氏です。

この作曲家の音楽を知ったのは「主題と変奏」(1951)ですが、第3変奏の激しさに感銘を大学時代に感じました。もちろんこれはCDを購入した時の話ですが。一度松平氏のコンサートに機会があれば行きたいとかそういうことも考えてはおります。

ま、予算と都合の兼ね合いですかね?そういう意味で、音楽は受験時代に要領を得なかった変奏曲にも関心が行っておりますが、どういう形にするか?という点についてこれから考えることにしております。

ただこの交響曲は2楽章制の短い交響曲を想定しており、3〜4楽章の作曲の構想は現時点でもないし、アイデアも枯渇しているので、出てこないと思います。

時間の都合もあり割愛というのは最終的な事情かもしれません。今、構想のコンサートは60〜90分以内のものを想定し、じゃ余るじゃない?と思うかもしれませんが、序曲、協奏曲、交響曲をやって、なおかつ違うことをするということなので、結構ギリギリです。

ただこの欲張り企画ですが、私の趣味の世界かもしれませんが、ある意味目指す世界がここにあります。趣味というのはテイスト感のある話で美学的な話であります。

趣味=ホビーとはなりません。そういうことを最近体調が悪い中少しずつ考えておりましたが、ただこれをどこで誰がとか5w的な話が全然進んでおりませんので、構想(妄想)を膨らませつつ、作曲を準備していく感じです。

何と言っても作曲行為というのはある人は打ち込みでという。しかし奏者というのは何のために演奏しているか?ということです。演奏家の究極の話で、演奏するということにおいては貪欲さがあります。

その仕事を奪ってしまうようなものではいけないのでは?と思うのです。彼らは彼ら自身の生き方があり、それが一生演奏していくということです。ある種の生存競争があります。明日の米をどうやってという意味においては、明日はどういう演奏が生きるのか?ということがあるのではないでしょうか?

作曲は作曲テーマを考えて明日の作曲を生きるということだと思います。あるテーマが見つかるまでが困難な生活だと言えるでしょう。作曲は主題4小節あって、それ自身を引き延ばし、ソナタなり変奏曲を作曲する技術もあります。

私にはない。というかこれをどうにかした方がいいと散々どこでも言われたものでしたが、なんと言っても次から次へと出るアイデアが多すぎるということでした。これはどう抑えるか?うまく整理できてないとか。

今もあちこちで言われることですが、これはある種のスタイル問題だという声も上がることもあります。前例がないと答えが出ませんが、私の音楽はある種そういうものがどこかいいのかわかりませんがあるような声もあり、一般的に見ると粗が見えるようです。

しかしこれは無意識的な潜在する手の名辞なのかもしれない。それが興味関心がランダムな機械操作上ではない方向で拡散するのでなんだかわからないというようなことがあるのかもしれないが、でもこれ自身もどこか一本の線がある。

そんな気もします。とある知人によく本を紹介をされますが、それを読ませてどういう世界に生きるのか?という全然音楽的教養には結びつかない本ですが、読んでいます。

しかしそういう思考世界というのは他人に紹介されて感じるものでなかなか知り得ないものを知るということで大いに活用する話ではないでしょうか?

それは弁当屋で食べる弁当のようなもので、自分で作る弁当は好きなものしかスーパーでおかずを選ばないと思うが、弁当屋はある意味そういうものがないのと私は少なくとも思う。

多少似ているおかずもあったりしますが、ある程度無作為さはあるように感じます。追風とありますが、最近読書も漢詩も進み、次から次へと書くものを処理しないととんでもない事態?というかそういう環境ができつつあります。

いい意味で面白いですね。今年の夏くらいまでに交響曲の完成図の想像ではなく工程が見えるといいなと思いますが、そして協奏曲も勉強しつつですが、交響曲の作曲の足しにしたいと思っております。

明日から通常生活に戻る予定ですが、連休中は特段に気を落とすこともなく上がりすぎることもなく中庸を保てていたのが幸いでした。これを維持しつつ芸術世界の仕事と向き合っていこうという気がしてきました。

ただ来月は厳しいというのはあり、来月は少し気持ちと体調をセーブしつつというのが目標です。ある意味盛り上がる気持ちを上がりすぎず、落ち込みを悲しみすぎず。この中庸が大事かもしれません。

今は悩め苦しめということでしょうか?でも「もっと」というのに頭につけてしまうのはよくないのでしません。創作上の苦しみ迷いはこれからもあるかもしれませんが、道筋が見えた分いいのかもしれませんね。

次は実現可能か?ということがステップアップなのかもしれません。完成のゴールの次に舞台。舞台で空気の振動に変えないといけないのである意味環境問題には都合のいい話です。

戻りつつある体調をどう完治させるか?そういう意味で忍耐も必要ですが、頑張りすぎず、適当にやっていこうという気持ちで邁進していくことにしていこうと思います。
 

怪々


ここのところ、何か雑事が多過ぎる。多過ぎるからいけないとかではありませんが、多過ぎるのは何か春めいているからか、季節感を感ずるところでもあります。

本も雑多に読みますし、この頃気に食わないとかありましたが、それも減り打算計算で行くといいのか?というような話もありますが、いかがなものなのか?

月末月初というのは俳句、短歌の締め切り等で課題山積。昨日歌を詠み、10首にした。選を受けたいとあれば、もう5首まで許されているが、眠気との戦いでそういうわけにもいかず。

眠いと湧き出るアイディアも枯渇してしまうということもありますし、作曲では書きすぎるというものがあった。楽譜の書き込みが書きすぎるということではなく作曲の筆の進みのことです。

なんというか、楽譜もある種の物語のようなものを感じますので「ある時おじいさんが。。。」と書き進め、「赤飯をたらふく食べてお腹いっぱいで幸せになり赤飯をこしらえてくださった人に感謝して別れました」等の話があった場合。

この一文で「赤飯を食べる」という動作の一文を組み立てて書きすぎるということだ。ある人は「赤飯がまずいので吐き出しました」でもいいし、「赤飯を食べたら食中毒を起こしてそのまま倒れてしまい、1週間寝込んで、もう赤飯を食べないと誓った」でもいい。

そのあとそのこしらえた人に対して恨みつらみが溜まって行ったでもいいかもしれないが、そのあたりで表現が変わるということもある。しかし私は赤飯が大好きですので、下2文はあってはならないので、書くことはしない。

しかしある作曲家は1日2時間しか作曲をしないという話を聞いたことがあるが、私も2時間以内と決めているようなところがある。さらに交響曲の作曲の前は漢詩を1首作詩してそこから作曲へ行くということがあった。

今は日々の勤務の疲れでそんな体力はないのでわずかな時間に集中して作詩や作曲を行うことにしている。とても短いのでもう終わり?という感じだ。

もしかしたら作品の演奏時間が短くて濃縮されているのはそのためかもしれませんね。これは私淑している作曲家の某氏。もうなくなっているのですが、私が作曲を始めた頃繰り返しCDを聴いたり、楽譜を読んだ人ですが、演奏時間がとても短い。

その上張り詰めた緊張感というのが高密度で行われていて尋常ではないものを感じます。ああいう人に音大とか意味あるのか?というのを感じます。


ネットで天才に大学は必要か?という記事を読んだが、大学とは凡人の行くところではないのか?という論点だった。教育を受ける権利というのは高校から選抜制?のような試験でふるいにかけられて試験官の目にかなった人のみ授業を受けることができるようになる。

しかし入学したからと言って入学以前にこういう勉強ができると意気込んでもいざ授業になるとそういうものもないとかいう声もあり、大学とか高校の勉強というのは果たして学生のニーズに応えいるのか?疑問ではあります。

ある知人は本や楽譜を購入するなら図書館に行って借りてくればいいと言ったことがあるが、各市町村には図書館というのが存在する。

もしかしたら興味範囲の拡大で行けば、読みたい本も出てくるかもしれない。ただそれは市民の教養のためのものでその個人の趣味や専門性を育てるものとはおおよそ遠いものを感じるので、あまり図書館は好きではないが、時々、いつか読みたいという本はあることはある。

しかしそれは自分の好きなシリーズ本でまだ買っていない本があったりする場合の時のみ。話はそれたが、私は大学や高校で何を得たか?よくわかっていないし、また得たものがあるのか?それも疑問。

学校の勉強にこだわる人もいた。私は理数が弱い。理由もわかっているが、勉強をしたからと行ってできるという簡単なものではありません。

その理由が理解されないというのは理不尽なものですが、わからなかった時代、叩き込めばできると豪語されてある程度した。しかし身につかなかった。

また文章を読むことも楽譜を読むことも苦手で正直こんな自己吐露のようなことも以前はしようと思わないし、できなかったことである。もちろん作曲もある意味、見様見真似だった。

今も大して変わらない。しかし何かを書こうという意思はある。ではそのために何をすれば解決するか?具体的に?という話になると燃えるような気がします。

ある師匠に、曲完成までに何をしたらいいかゆっくり考えなさいという助言を得たことがあります。ただ五線紙をコピーしてシャーペンで書き込んで行くということではない。

例えば、隠し味。音に色彩感を持たせることであるとか、いろいろな仕掛けを考える。そこには多くのキーワードを含む暗号を入れるというようなことを考えて行くという道具箱を作った暁にどういう音楽を構築するか?という音を選択。

またこの音でないといけないというものを感じて行くことだとかでてそのためにどんな楽譜を読んだり音楽を聴く必要があるか?また学術文献も漁るとか。

そういうものを細かく見て長い目で見たときに完成というのがある。準備4ヶ月。作曲2ヶ月という感じかもしれない。昔の大家みたいに何年も考えるということはない。

私は普通の人が読まない学術文献を読む。どうしてか?あまり人が考えることに興味がないからです。一般市民の教養番組というのは深く知ろうという気にはならない。

むしろ興味のない世界に目が向きます。音楽もそうですが、オリジナルを作るなら、民謡だとかその国の文化の音楽の楽譜を読んだりした上で考えるべきだというスタンスです。

だから西洋音楽での表現法での作曲には少々飽きている。またその枠内で楽しむというのが普通の人がいう趣味かもしれない。音楽家で中世音楽が好きだという人がいる。

もちろん私もその一人でもあるわけですが、趣味が高じて、実際に楽譜を読んで演奏までする人もいる。正直ここまでは?というのはありますが、でも好きな人はその時代の音楽を肌で感じ、耳で感じ何から何まで当時の音楽を再現する努力をして行く。


そういう世界だけにはどうしても止まれない。理由として以前師事した(勝手に思っている)という師匠の話を聴くと演奏レパートリーは?音楽史にある曲全部。と言った。

私は最初聞いたとき、この人何言ってるの?と思ったが、話を聴くと、リハーサルを3回〜4回やってコンサートをするともうその曲には飽きるものだから違う曲を演奏したくなると言っていたような気がしました。

確かに私も音楽でも文芸もそうだけど、飽きっぽいところがある。そういうものを聞いてしまうと音楽史にある古典名作古典珍曲等、なんでも聴いてみたいとか欲はある。

むしろ最近では珍曲?的な音楽の発掘、紹介に関心があります。今、計画中のコンサートは自作序曲、某作曲家ピアノ協奏曲第3楽章と新作交響曲で3〜40分程度のプログラムで組めるようにするという計画を立てている。

そのピアノ協奏曲は古典派の曲ですが、コンサートではほぼ取り上げられることはないが、いい曲だと思っているし、演奏価値はあると信じているので、埋もれているのはもったいないので、蛇足ですが、私が関わるアンサンブルの編成で編曲し、演奏回数が増えないものか?というのを期待しているのです。

この計画はまだ計画の段階で詳細は書けませんが、ある番組をモデルとしたコンサートを計画しているが、これ自身宗教性やプロパガンダの話をするものではないが、宗教性に関して言えば、計画中の音楽が宗教と関係がないか?

と言えば厳密にいえばそういうこともあるかもしれません。しかしそこで何か儀式めいたことをするということではありません。

ピアノ協奏曲は2つのバージョンをこれから作成し、選択した上で奏者の選定に入りたいが、まだ問題があるので、これをこれから関係者と詰めて行く予定です。

技術的なことは楽譜作成後ですが、外野的な話ですが、可也重要なことは確かです。

そういう意味でしなくてはならないことが増えてある種雪解けのようなものを感じます。実際生業も忙しくなりつつありますが、それはそれですが、表現する仕事も活況になりつつあります。

以前は作品を舞台上で表現する仕事はしてもしょうがいないとかそれはお前がすることではない等のことを散々言われましたが、でもどうだろうか、成功不成功はその言った人物が決めることではない。

また言った人は責任を取れないのだから相手にしないことかもしれない。これは生業だけやっていればいい時代の弊害だと思います。そういう人に限ってこうした表現活動という精神労働について理解しようとしない。

何も賃金が発生するとかしないで仕事の損得ではないようにも思います。ましてこういう時代の中でストレス社会においてどこで発散するか?人によって酒、喫煙とかあります。

しかし私はどれも馴染めないのでできない。しかしそんな人でもストレスはある。先程のするなという発言の人はみんなと同じやり方で勝負しろということなのかもしれませんが、正直それができない人もいる。

昔から生業の仕事は得意な分野ではないので成績は悪いです。ある人はそれが全てだという。しかし人間にはそれは一部であってその人の本質ではないことです。

でもどこかで食っていかねばならないことは確か。それは認めます。そのために人間には労働があります。体力がもう戻らないかもしれないが、1日の流れでいろいろなことをして過ごして行きたいとそう考えております。

今朝ももう2つの精神労働をし、さらに編曲の作業もきょうはしようかしまいか?ということを考えていて、1週間の流れとしてはやっぱり木曜に一極集中してしまうかもしれません。

また、体力的な話もどこかで折をつけて考えていこうということはあります。短期的目標は欠かさずやるということ、長期的目標は何かをやると決めたら時期を定めず完遂すること。ということがシンプルに感じます。

まず、コンサート開催を長期目標とし、先程の師匠の話で、どういうことをすればその目標に到達するか?単純に予算があればではありませんので、ゆっくりと考えていこうと思うのであります。

まずはアイディアや知恵を出すことで、協力していただく人の話も聞いた上で話を進めるということです。この挑戦は先月から始まっている。

そのせいか、漢詩の作詩数が増えてしまいました(笑)2週間に1首が目標ですが、作曲や編曲が始まったら毎週作詩して行きたいものです。

漢詩に困ったら『圓機活法』を活用して詩材を探すことがいいらしいです。でもこれからの漢詩は季節が支えてくれそうです。さてきょうは『春雨』『一灯寒』とかなんかで作詩できそうですが、漢詩の面白いところです。

『梅花』とかで何か作詩したいけど、『桃花』とか、まだ『惜春』には遠いしなぁ。さて新聞でも読んでみて行きたい。きょうも書き急いだ。
 
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